海と坂と独身アラサーオタク
休み明けの月曜日、この時間帯なら人は少ないだろうと思っていた。
そう考えた私は読みが甘かった。
「インスタ映え」
巷ではそう呼ばれる場所の多くは若い男女で賑わい、彼らをターゲットとした店も繁盛している。私も写真撮影が趣味なので、いい風景写真を撮ろうと思うと必然的に彼らと重なる事が多い。
今回、私が訪れたのは「きらきら坂」と呼ばれる赤穂市にある観光名所だ。
私も赤穂城や街の歴史を学びたいと前々から思ってはいたが、交通の便がやや不自由(JR姫路駅から30分で本数が少ない)な上、そもそも姫路の方が国宝姫路城の存在もあり、わざわざ赤穂まで行くなら姫路でいいやと思ってしまい、これまで足を伸ばす事はなかった。
しかし、ネットの紹介記事にあった「きらきら坂」は文字通りきらきらしてるように見え、是非とも晴れた日にこの風景を撮りたいと思い、私の足(乗ってる電車)は姫路城を通り過ぎ赤穂市へと向わせたのだった。
そうして訪れた「きらきら坂」は綺麗で素敵な場所だった。
伊和都比売神社(いわつひめじんじゃ)から海へ向かう道がきらきら坂の区間となっている。
伊和都比売神社は縁結び、航海安全、大漁祈願などの御利益が有名な神社で私が通った際も神社に用があるらしきご年配の方々を見かけた。
私は勝手な想像で大きな通りがあり、店々がたくさん並んでいるものと思っていたので、100mもないくらいの小道に少し拍子抜けしてしまった。
そして、平日の午前にも関わらず多くの若者が訪れていた。
人気テーマパークのようにミシミシになるほどではないが、写真撮影するには構図に工夫が必要なくらいには混んでいた。
おそらく土日祝ならば、もっと混むのだろう。
それまでの赤穂の街や神社を見た後だと、一体どこから現れたのだというくらい不自然な混み具合だ。
私の見たネット記事では穴場スポットと書かれていたが、多分ネットで紹介されてインスタでアップされる頃には穴場では無くなるのだろう。
私はこの風景と共にもう一つ目的があった。
上の写真にも少し写っているカフェ「海と坂と」でいちごパフェを食べることだった。
アラサー独身オタク、しかしながら甘いものには目がない私は完全に胃袋をいちごパフェ仕様にしていた。
行けませんでした
非常に情けない話だが、ここを訪れる人々はみんな友人・恋人同士で来ている。
そんな彼らがオープンと共に店に入っていく中に1匹で割り込めるほど私は獅子ではなかった。獅子の群れに放り込まれた迷える子羊のごとく、この狭い界隈をウロウロウロウロし、きらきら輝く彼らがカフェに入り、空いた瞬間に撮ったのが上の写真である。
店がいくつもあればまだよかったのだろうが私のリサーチ不足もあり、「海と坂と」以外の店を見つけられなかった。
結論から言えば、目的の写真は撮れたのでそれで満足すればいいのだが、パフェにありつけなかった私は他に何かないかと再びきらきら坂を徘徊し、とあるものを見つけた。
これはきらきら坂の上近く、神社から海へ降る階段の最初にある古民家だが、私は最初「賞状か許可証でも落ちているのか」と思い、近づいた。
閉店のお知らせだった。
なぜ古民家の横に置かれていたのかは分からない。
契約期間満了で閉店という事は売り上げが当初の予定よりは低かったのだろうか。
2020年開店という事はちょうどコロナの流行と重なる。
店を開く構想段階では当然コロナの事など予期してなかっただろう。
きらきら坂に訪れる若者をターゲットに古着を売る。
とてもいいアイデアだが、商売を続けるというのは難しいものだ。
私もオタク時代以前の社畜時代は「自分の店を開きたいな〜」などと夢想していたが、世の中の厳しさを少し見せられた気がした。
この写真はきらきら坂を降ったところにある休憩所?みたいなところだが、かつてはどのような店があったのだろう。ここは昔はどんな場所だったのだろう。
きらきら坂がどうして出来たのか、ネットや赤穂市の施設で調べても分からなかった。
伊和都比売神社は航海安全のために帝国海軍の東郷平八郎も訪れたそうだが、今は若者が写真を撮るためにやって来る。
上の休憩所の椅子に腰掛け海を見ると、大石内蔵助名残の松というものを見る事ができる。
しばらく私は椅子に腰掛け過ごしていたが、特に誰もこれに気にかける様子はなかった。
目的はきらきら坂なのだから当然と言えば当然かもしれないが、ほんの少しだけ寂しい気もした。通りかかった中年夫婦がこれを見て赤穂浪士について話しているのを見た時、嬉しさと共に赤穂浪士で若者を呼ぶ事は出来ないだろうなとも感じた。
実際こうやってあれこれ偉そうに言っている私も冒頭に書いたように「きらきら坂」が無ければ、きっと来なかっただろう。
この後に書いていくが、赤穂市には「赤穂浪士」「塩の歴史」といった面白い見どころもある。
しかし、それらは「映えない」
経験や知識として人生を潤し豊かにしてくれるが、それは心の内に留めがちで外に出すのは難しい。
私がこうやってブログという形で表現しているのも「きらきら坂は綺麗で素敵な場所でした」
これは本当に事実その通りなのだが、と同時に「素敵な場所で商売の難しさの一端を知った」「赤穂市は面白い歴史がある」という事を表現するにはInstagramやTwitterでは言葉が足りなさ過ぎるし、心のブレを伝えきれないと感じたからだ。
いちごパフェを食べられなかった無念がねじれにねじれて、このようになってしまった。
多分、素直にいちごパフェを食べる事ができていたなら、きらきら坂の写真の後、いちごパフェの写真をアップして記事を終わらせていた気がする笑
いちごパフェ分をどこかで取り返そうとした結果、この後私は歴史博物館に寄り、赤穂市の歴史の勉強をする事となる。
私はレンタルサイクルを漕ぎ、赤穂の街を走っていた。
レンタルサイクルの店主は私を見て「にいちゃん、服赤いからチャリ赤いの貸すね」と言って赤い自転車を貸してくれた。私が中学高校時代、赤い自転車に「赤兎馬」と名付けて走り回っていた黒歴史を思い出させてくれた事に感謝をしつつ、目的地へと向かっていた。
目的地は歴史博物館
きらきら坂できらきらに無事敗北潰走し、その無念を赤穂市の歴史を学ぶ事で自己正当化に繋げようと躍起だった私は秋風を頬に感じつつ、駅で配っていた観光マップを片手に目的地にたどり着いた。
歴史博物館の中は人がほとんどいなかった。観光で来たらしき御年配の夫婦が1組いるだけだった。先のきらきら坂の賑わいを見た後だと余計に寂しさを感じる。
館内は写真撮影は禁止だった。
ここでしか見れない貴重な資料などが展示されてので、撮影禁止それ自体に文句は全くないのだが、きらきら坂に訪れていた若者を1人も見かけないのは、写真が撮れずSNSで共有する事が出来ないからというのも原因の1つの気がする。
最近では写真撮影OKの美術館も増えてきている。
著作権等の絡みもあるので難しい話だが、若者を呼び込む導線としてインスタなどのSNSが強いのは先のきらきら坂が証明している。
歴史博物館はとても面白い施設なので少しもったいない気もした。
もっと多くの人が訪れて、その面白さに触れてほしい。
歴史博物館では赤穂市を「塩」「赤穂浪士」の2点を中心に学ぶことができる。
赤穂という街の歴史はそもそも成り立ちからして塩と深い関わりがある。
人は塩を摂らないと生きられない。
赤穂で取れた塩は京都大阪で珍重され、赤穂浪士で有名な浅野氏が繁栄したのも塩による利益あってこそだった。
浅野内匠頭が吉良上野介義央に切り掛かった理由は諸説あるが、どれも密接に塩と関わっている。
面白い説では、吉良の領地である三河も塩の産地だった。赤穂の製塩技術の急速な発展により人気を取られた吉良は「塩の作り方を教えてほしい」と頼むも「門外不出」として断られ、結果として吉良は内匠頭に悪感情を持つようになったという説もある。
どの説にしろ塩が赤穂浅野家五万三千石を作り上げ、そして崩壊させた理由となっている。
歴史博物館ではこの事件についてはあまり触れていない。
公式の資料館なので原因不明の事件に世間一般以上に掘り下げるわけにはいかないのだろう。
また、ここで注目して欲しい点が先の2つ以外にもう1つある。
赤穂は江戸、福山(広島)と並ぶ日本三代上水道として知られている。
赤穂という土地は海が近く、井戸を掘っても海水が湧き、川も海水と入り混じっているため、街として繁栄していくためには、上流から生活用水をひいてくる必要があった。
赤穂の上水道設備は1616年、当時領地を支配していた池田家(姫路を支配した池田輝政の一族)の命を受けた垂水半左衛門勝重が指揮を取り、3か年かけて作り上げた。
赤穂市公式サイトに旧赤穂上水道マップがあり、その史跡を辿る事ができる。
この上水道は城下町の家々にまで行き渡り、屋敷内の汲出枡から水を汲み上げる事が出来る様になっている。この上水道は1944年に近代上水道が敷設されるまで使われていた。
赤穂の街は塩のにより繁栄し同時に塩に悩まされ、そして努力の結果、更なる発展を遂げたと言える。
私も今こうしてブログを書いていく中で公式サイトなどを調べながら書いているのだが、めっちゃ面白い。赤穂市の観光サイトには分かりやすくかわいい地図も載ってるし、見てるだけで行きたくなってくる。
なんで行く前にちゃんと調べておかなかったんですかねぇ……
多分私は赤穂の魅力の3割も体験出来てないみたいなので、次に行くときはきちんと観光マップをダウンロードしてから行く予定だ。
あと赤い服は着ない。また赤い服で行ったらレンタルサイクルの店主に顔を覚えられそう。
P,S,ちなみにパフェは食べました。
いちごパフェではなくプリンパフェですが、美味しくてパクパクですわ〜でした。